だいじょうぶだぁ教の国。

新型コロナウイルスが猛威を振るっている。

私が最初に中国が新しいウイルスで大変なことになっているらしいというニュースを見たのは昨年末か1月頭か。

正確な時期を覚えてないくらいなので、対岸の火事だと思っていたのだったのだろう。

あれも何時頃だったか、ダイアモンドプリンセス号の件があった辺りでも、まだまだ他人事だった。

ダイアモンドプリンセス号が何故日本に停泊することになったのか知らないし、

停泊していたのも横浜だった気がするなぁぐらいの知識。

しかし今考えればあの頃にはもう、着実にこの災いは身に迫っていたはずだ。

そして今がある。

 

以前、「注文を受けてから時間をもらって商品を提供するバイト」をやっていた時の話をする。

私はそのバイト先の店長の考え方がとても嫌いだった。

間に合うか間に合わないか分からないギリギリの提供時間をお客様に提示する店長だった。

私はその度に「お客様を裏切ることになるので、もう少し余裕を持って時間を頂いて下さい」と頼んだ。

だが、件の店長が言うのはいつも「大丈夫大丈夫、なんとかなるから」だった。

その事について話し合った時に聞いた考えはこうだった。

 

“今までも大丈夫だった。

蓋を開けたら間に合う事もあるし、間に合わなくても謝ればお客様は許してくれる。

だから大丈夫。

それよりも余裕を持った時間を提示して、

時間のかかる店だというイメージがつく方がマイナスだ”

 

何が大丈夫なのか。

その「大丈夫」には、

何とか間に合わせた人がいるし、待たされたお客様がいる。

確かにマイナスイメージは避けたいが、それで守れない約束をしては意味がない。

私はそのバイトを辞めた。

それ以来「大丈夫」という言葉が嫌いだ。

しかしその言葉は国民性そのものだったのかも知れない。

 

今回のこの新型コロナウイルスの件で自覚したことがある。

日本は「大丈夫」という言葉を神よりも仏よりも信じているという事だ。

中国で得体の知れないウイルスが流行った。

日本に停泊している船で感染拡大した。

全国で感染が広がった。

でも「大丈夫」。

なんなら今も思っているだろう。

「大丈夫、日本はきっと乗り越えられる」と。

 

確かにそうだ。

いつだって日本は大丈夫だった。

第二次世界大戦で敗戦しようが、阪神淡路大震災東日本大震災に見舞われようが、原発が爆発しようが。

今も日本はあり続ける。私はあり続ける。

数々の事から立ち直ってきたじゃないか。

大丈夫だったのだ。

 

でも考えて欲しい。

その「大丈夫」の裏には、

撃たれた人がいる。

炎に包まれた人がいる。

津波に飲まれた人がいる。

今も家が避難区域に含まれて帰れない人がいる。

大丈夫なのはそこに当てはまらなかった人だけだ。

 

そして、自分が「大丈夫」と言える立ち位置に明日以降もいる保証はどこにある?

前向きなのは良い事だが、前向きと能天気は違う。

もう大丈夫なんて言えるような、思えるような状況じゃないと私は思う。

 

それでも私は明日も仕事へ行く。数日のうちには買い出しにスーパーへ行く事もあるだろう。

こんな文を書きながらも心の奥底では

まだ「大丈夫」だと思っているのだろうか。

私もまた、この「だいじょうぶだぁ教」を作る一人なのかもしれない。